私の生まれはブラジル国サンパウロ州バストス市である。
1958年7月7日に父庄三と母雅子が結婚。
その年の10月、神戸港からアルゼンチナ丸に乗って太平洋を航海中、母のおなかに私の命が宿った。船は各国の港に寄り、食料と水を調達しながら北米から南米に南下し、2ヶ月の航海後、12月にブラジル大陸のサントス港に到着。
港のホテルで一泊したあと、西へ800km内陸にあるバストス市が長旅の終点となる。翌年の1959年8月8日、バストス市の東本願寺のお寺でお産婆さんの手によって生まれた。
父と母がブラジルに渡ったきっかけは、当時、福井県吉崎の東本願寺の東別院の役員であった祖父八十山庄助の弟八十山金蔵(八十山凡水住職)が、ブラジル日本移民の檀家のため、渡伯。1958年、日本人の植民地であるバストス市にお寺を建てたため、両親がバストス市に渡伯したのである。母はブラジルが大好きだった。永住したいと思っていたという。1960年、弟明治(マリオ)が生まれたあと、父の病いがきっかけで1962年11月家族そろって父の郷里である石川県小松市に帰ってきた。
その年の10月、次男浩が誕生。
帰国後、母雅子は幼少より続けていた油絵を描き始める。
カンパスだけでは物足りなくて襖にまで自然を愛する母の絵が描かれていた。
母は、1934年10月に茨城県東茨城郡美野里町で父大島好栄、母龍の次女として生まれた。母の祖先は平安時代、常陸の国大掾平国香の家来であり、江戸時代になって500石の扶持を賜った。大島家の43代目の次女として生まれた。
3歳の時、両親と兄と姉と5人で中国満州に渡り、10歳までの7年間を黒龍江のほとりでロシアを眺めながら育った。
母が4歳の時、実母龍が38歳の若さで肺炎で他界。
その後、父好栄は白系ロシア人の彼女が出来、馬車に幼い母を乗せて黒龍江の向こう岸のロシアまで会いに行っていたという。1944年、母10歳の時に日本に帰国。
兄弟の中で一番体が丈夫だった母は北海道斜里郡美里町に住む父の妹(おば)の家に養女として迎えられ、父庄三と出会う。23歳までの青春を愛馬アオとともに道東の大自然の中で過ごした。母の絵には中国、ブラジル、北海道に共通する果てしなく広がる大地が描かれている。大自然にとけ込むように描かれている動物や人間の親子の愛情が、幼くして亡くした実母への思いのように強く感じる。
屋敷内の庭木や野鳥に話しかける母は童女であり、宇宙人でもあった。
陽気な母の回りには人がよく集まった。父はそんな母とは正反対の性格で一人書斎にこもり、黙々とペンを走らせている姿しかおぼえていない。
私は小さい時から絵を描く事が好きだった。母の手ほどきを受け、いつしか洋画家として歩き始めた。22歳の時、車の運転中、トレーラーと正面衝突をおこし、九死に一生を得た後、本格的に画家としての道を歩み始める。
23歳の春、小松の実家を飛び出るように一人京都に住む。
絵描きとして0から自分を試してみたかった。絵を売り歩きながらの制作の日々。翌年の初夏、洛西の竹林を歩いている時だった。いつも見ている竹なのにその時の私の心境と竹の様相がぴったり一致したのか私の心をとらえて離さない。
孟宗竹は太くてたくましく、青々として天に向って真っすぐのびている。
だけど根っこはびっしりはびこり、地中で複雑にからみ合い、コンクリートまでも割って出てくる勢いに雑草のような生命力を感じた。竹の幹が人間の外見、竹の地下茎に人間の精神が重なる。竹と人間を重ねてどこまで表現できるか追求したい。その日から私の竹狂いが始まった。
竹の色で悩み、色のない世界に行って自分自身の心の竹の色を確かめるために1991年7月、北極の国、グリーンランドで1ヶ月間のテント生活。1995年、竹の本場である中国で上海美術館、四川省美術館、西安美術学院と巡回個展を開催する。そのとき成都市で出会った三枚の竹の絵に心が釘付けになった。
日本画の原点である水墨画の技法を私の油絵の中に導入したい。
日本を含めたアジアの一人の絵描きとして一歩進むにはどうしても本場中国で水墨画の勉強が必要だった。中国での巡回個展を成功させたあと、西安美術学院の留学が決まり、1996年3月27日に出発することが決まった。その年の3月23日、出発直前の思いもよらない母の入院。胃癌の末期だった。3ヶ月の命と担当医の宣告に即留学を延期。母のベットの横に補助ベットをつけての看病の毎日。入院2ヶ月目の5月19日、父が交通事故にあい、コンクリートに後頭部に強くぶつけてしまい脳挫傷。死の淵をさまよったのち植物人間になってしまった。
母は金大付属大学病院、父は小松市民病院と1ヶ月間入院が重なったあと6月19日、私の両腕から母が天国に旅立った。61歳だった。次に父の看病をしながらブラジル母娘巡回展を企画。母と私の深い絆のブラジルで母娘展を実現させたかった。1998年7月17日、私の両腕から父が母の待つ天国に旅立った。67歳だった。その日から私にとって空は両親となり、いつも見守られている。
その年、母への感謝をこめたブラジル母娘巡回展は大成功をおさめた。
2年後の2000年4月6日より4年間おあずけになっていた中国留学を実行。1年間、中国画を学び、今年4月20日に無事帰国した。
一つ一つの節目に多くの人達との出会いがあり、絆が生まれ、地下茎の如く、体内で伸び続けている。その広がりは、竹林の如く、人間社会を作り、国を越え、手をつなぎ、友情の輪を広げていく。友情の輪は人の和。
自然に学び、人に生かされ、両親への感謝の気持ちを持って歩んでいきたい。
日本経済新聞編集委員 原田 勝広氏による前書き

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