出雲大神宮紅葉ライトアップと 八十山和代展を眺める夕べ | |||||||||||||||||
▲平成17年ライトアップの模様 |
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▲八十山和代先生の絵画 |
▲イメージ図 |
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この度、丹波國一之宮 出雲大神宮 「社殿創建千三百年大祭記念事業奉賛会」の理事に委嘱されました。 |
「社殿創建千三百年大祭記念事業奉賛会」役員名簿 |
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丹波國一之宮 出雲大神宮とは 亀岡の旧道の一つとして、老ノ坂から王子、そして篠八幡の脇の道を馬堀から保津川を渡り、千歳山の麓に沿って千歳町毘沙門、史蹟国分寺のある国分、七谷川の橋を渡り出雲宮正面に至り、出雲大神宮神池横より馬路に出て八木町に抜ける道がある。今にあってもこの道は古き時代の面影を残していて、脇には、格子作りの家が並んでいたり、小さな社や寺の森が点在していたり、代官屋敷や亀岡藩の家老門をそのまま残す家が見られるひなびた街道である。 その千歳の古道の奥宮にそびゆる御神体山(御蔭山[みかげやま])を仰ぐその麓に、元出雲と言われる“出雲大神宮”が鎮座する。“元”が頭につけられているのだから、おそらく島根県の有名な出雲大社より古いと伝えられている。 山陰線亀岡駅を下車して北へ五キロメートル寄ったところに丹波国一宮・延喜式内社・名神大社・出雲大神宮の荘厳なる神庭がみられる。亀岡市千歳町出雲というところにあるこの神社近辺は、盆地を一望するには、格好の場所といえる。丹波が湖であった時代にも、ここは生活の場として、又、祭祀の場、文化の中心地として繁栄していたのではなかろうか。 この出雲大神宮は大国主命とその后神にあたる三穂津姫命をまつる延喜の制の名神大社であるが、本来は、本殿の背後に円錐形に美しくそびえる“御影山”そのものが太古より崇められていたと伝える。その御影山がいわゆる神体山として、そして“出雲の大神”として崇められていたのは、われわれの想像以上に古い時代からであったようだ。崇神天皇の時代に大和の三輪山が崇められるようになったが、御影山はその時代よりずっと古くから出雲の大神と敬まわれる神体山としてきこえ伝えている。 そして、この出雲大神が、さらに国史最初、地球最初の国祖と称え奉ることは、我が国神祇道に正史として伝える国常立尊が丹波の国、或いは亀岡の祭神となっていたものと思われる。この桑田郡がそういう立地条件でもって“神都”となり、ここから大和、出雲両国への文化の伝達もあったと考えられる。その一つの証しとみられるものに富士浅間神社に伝わる古記録、富士古文書-富士文庫、徐福伝、宮下文庫、神皇記-がある。 その中で、太古において国常立尊は天が下に下り、“田場(たにわ)”の真伊原にましまして桑田の宮(出雲の宮)を築かれ、国の半分を農業を主として理想的に統治されたことを統治界の物語りとして書き直し、詳しく記述されている。国常立尊は薨じて後に田羽-田場-出雲御神体山に葬られ、そして出雲毘女皇女らによってその御神体山の麓の祠に祀られる。出雲毘女が桑田の宮と国常立尊の祠を守護。この出雲毘女も薨じた後は御神体山に葬られる。そしてこの毘女は三穂津毘女と諡(おくりな)されて祠に祀られ、出雲大神と呼ばれるようになった由も伝えられる。 亀岡はもともと桑田郡に位置しているので“桑田の宮”に符合する。又、三穂津姫命は出雲大神宮の祭神であることなどを思いめぐらせると、いよいよもってこの神社が古来より出雲の大神と崇められていたところ、との結論に導かせるのである。そして田羽山なるもの(谿羽[たにわ])が、神体山の御蔭山に相当するということにもなるであろう。 |
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