『自分の事は自分でしなさい。』

両親から頂いた言葉(1963年頃)

父の実家は、大きな燃糸業を営んでいた。白生地の反物を京都に仕入れていたので糸財閥だった。遠く朝鮮とも貿易をしていたと亡き父が言っていた。

祖父は、蓮如上人が教えを問うた石川県と福井県の県境にある東別院の役員をしていた地元では、「光玄寺」の総代をしていた。

昔の日本は貧しく南米、北米、ヨーロッパと移民の歴史があった。祖父庄助の実弟金蔵が、布教活動の為、20歳の時南米ブラジルに出された。

1958年サンパウロ州バストス市にお寺を建てることになり、檀家のお世話として渡米。

1962年、両親はブラジルでの4年間の檀家の世話を終え、私の3歳半の時、日本へ帰国した。ブラジルでの食生活とは比べ物にならない程、日本は粗食だった。バナナ2分の1が堂々と店先に売られていて切り口が黒く変色、たくあんの漬けものと味噌汁。

ブラジルでは、肉の塊のモルタンデーラ。果物はパパイヤ、マンゴ、バナナ、ミシリカ。牛の内臓と豆を煮込んだスープのフェジョアーダ。豆だけのスープのフェジョン。私の生まれたバストス市は養鶏が盛んでした。毎日卵がいっぱい入ったパンケーキを食べていたので帰国後、地元の御幸幼稚園では、普通の子より身体が大きかった。

両親は家を建て燃糸業を営んだ。その頃は5,6人の女性を雇っていた。
機械は24時間動いていた。両親とも忙しくって育児どころではなかった。

父「家には無駄な金はない。自分の事は自分でやれ。」
母「和代ちゃん、あなたが良いと思った事はどんどんやりなさい。」
両親の言ってる意味は180度違うと思っていたが、本当は同じだった。

「自分の事は自分でやりなさい。」

海外の美術館での個展6回や北京に事務所開設出来たのも4歳の時から父が事故で植物人間になるまで言われたおかげと感謝しています。

『平成のジャンヌダルク』淡交社・納屋会長

 

2004年10月14日、淡交社の納屋会長が他界された。ショックで15日のお通夜には、一時間も早く納屋会長の自宅に着いた。手を合わせ、会話する。
私の個展のオープニングパーティーの際は、長年において発起人代表を快く引き受けて下さった。海外展の為に出かける時は薬や扇子など持たせて下さり、まるで親のように気にかけて下さった。
2003年10月。11月の二子玉川高島屋で開催する個展のオープニングパーティーの発起人代表をお願いしに淡交社に行く。6階の役員応接室に、葉巻を燻 らせながら納屋会長が現れる。(星野秘書室長同席) ソファーにドンと座り、豪快な大きな声で「八十山さん、あんたは『平成のジャンヌダルク』だ。」
私「え、私、殺されちゃうんですか?」と内心嬉しかったが照れながら言う。
納屋会長「いろんな人が僕の所に相談に来る。人を紹介して欲しいとか、何々がしたいとか、自分で考えようとしない。皆、人のふんどしで相撲を取りたがる 人ばかりだ。八十山さんは、長い付き合いをしているが、一度も僕に頼み事をしたことが無い。それどころか、誰の紹介も無しにたった一人で、外国に行き、人 脈を作り、国家事業レベルの個展をいくつも成功させ、その人脈を日本に持って帰って来る。これからの日本はこんな女性が必要なんだ。八十山さんは、平成の ジャンヌダルクだ。」
涙が出るほど、嬉しかった。納屋会長は私をしっかり見ていたのだ。
その言葉が私の大きな支えとなった。
次の画集を出版する時には、挨拶文として納屋会長に『平成のジャンヌダルク』を書いて頂こうと楽しみにしていた。
まさか、一年後に天に召されるとは夢にも思わなかった。
納屋会長、納屋会長から頂いた『平成のジャンヌダルク』は餞の言葉となって、私の体の中でさらに大きくなり生きています。
納屋会長、私に生きる喜びと希望を与えて下さり、本当に有り難うございます。心から感謝しています。
天国からも、大好きな葉巻を燻らせながらこれまで同様、私を励まして下さい。どうか安らかにお眠りください。